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| 子供の頃、私は貝の類が一切食べられませんでした。 |
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| 嫌いになった理由は、おそらく砂を噛んでしまったからだと思います。 |
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| 「ガリッ」とも「ジャリッ」とも言えない、あのいやぁ〜な感じ。 |
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| それを体験して以来、私は貝を口にしなくなってしまいました。 |
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| それがいつから食べられるようになったのか。 |
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| 美味しいと感じるようになったのかは今もわかりません。 |
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| 夏休みになると、毎年のように姉と私は、母方の祖父母の家に預けられていました。 |
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| 祖父母の家は島根県の松江市で |
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| 日本最大の汽水湖(海水と淡水が混じり合った湖)である宍道湖があります。 |
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| 宍道湖は言わずと知れたしじみの産地。 |
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| 当然、朝ごはんには毎日のようにしじみ汁が出てきました。 |
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| 祖父母が私達のためにわざわざ漁港まで行って買ってきてくれていたしじみでした。 |
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| 「美味しいから食べんさい」 |
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| 「しじみを食べたら元気になりようよ」 |
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| 祖父母なりの気遣いで、もてなしだったのだと思います。 |
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| でも私はどうしても食べることができませんでした。 |
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| ある日のこと、やはりしじみ汁を食べれない私の前で、 |
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| 祖父が熱心にしじみの身をつまんで口に運んでいました。 |
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| 祖父は事故で右手の人差し指を失っていたのですが、 |
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| 4本の指でとても器用にお箸を使っていました。 |
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| 碗の中のしじみをつまんで口に運ぶ・・・そしてまたしじみをつまんで口に運ぶ・・・ |
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| 単純な繰り返し作業ですが、何だかとても楽しそうで、4本の指で使うお箸が美しく見えました。 |
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| 見慣れているはずの手なのに、指が1本足りないだけで |
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| こんなに不思議で見とれてしまうような動きになるのか・・・と、 |
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| 私は憂鬱なしじみ汁のことを忘れてじっと見つめていました。 |
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| 私の視線に気付いた祖父が、私がしじみを見ていると勘違いして、 |
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| 「都会のしじみは身が小さかろ?こっちのは大きいけんな。」 |
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| と自慢げに言い、また美味しそうにしじみの身をつまみはじめました。 |
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| 私は、おじいちゃんの手を見ていたんだとは言い出せず、 |
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| 何だか悪いことをしたような気持ちになりました。 |
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| その気まずさを隠すように、無理やりしじみ汁に口をつけました。 |
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| すると、思ったより美味しかったのです。 |
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| 私は、おじいちゃんがしていたように、 |
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| お箸で1つ1つしじみの身を外して食べるという作業がしたくなりました。 |
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| ゆっくりと時間をかけて汁を飲み干し、そしておじいちゃんがするように、 |
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| しじみの身を1つ1つお箸で取り出して口に運ぶという作業をしたのです。 |
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| 当たり前なのですが、しじみ汁のしじみは出汁として入れるので、 |
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| 身にはほとんど旨みが残りません。 |
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| でも祖父母の家で食べたしじみは、ふっくらと大きく、 |
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| ほのかに海苔のような香りがしてとても美味しかったのです。 |
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| もちろん祖母が丁寧に砂抜きしてくれていたので、砂も噛んでいませんでした。 |
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| 以来、私は少しずつ貝を食べることができるようになりました。 |
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| どんなことがきっかけになるかはわからないものです。 |
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| 今でこそ、しじみには肝臓の働きを良くする成分がたくさん含まれていて、 |
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| 二日酔いに効果がある、ということは広く知られています。 |
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| でもそんな情報もなかったその時代、無類の酒好きだった祖父が、 |
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| あんなに美味しそうにしじみ汁を飲んでいたのも、 |
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| もしかしたらそのあたりが関係していたのかもしれません。 |
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| 4本指の祖父はもういませんが、彼の血をひいて酒飲みになってしまった私は、 |
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| 今や率先してしじみを食べるようになりました。 |
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| 今もしじみ汁を食べる度に祖父のことを思い出します。 |
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| そして、都会の小さな小さなしじみの身を1つ1つ外して口に運ぶという作業を、 |
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| 私は今もやっています。 |
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